ターくんこと、「ぼく」の姉である著者がターくんの気持ちになって描写している。言葉が十分にしゃべれないけれど、いろんなことを肌で感じているター君。
そして、母親や兄弟との関係など…描かれていることはすごく深いながらも、短く絵本のように読める。そして、共感もできる。
さらっと読むことも可能だけれど、ターくんとともに深くいろいろなことを考えられればよいと思うのです。
著者の『精神科医ですがわりと人間が苦手です』 の中に、近年のうつ病についてちょろっと言及していたので、それがとても印象的だったので、それについての本を読んでみたわけです。
言われて長いですが、うつ病のあり方が変わってきているということについて、彼女が「30代うつ」と称するうつと、従来の「うつ病」では、どんなことが異なっているのか、それを一緒くたにうつ病としているために、弊害があるのではないかということを述べています。
なかなか、対応策に困る症状だと思うので、もう少し事例などが出回ればよいのでは・・・と思う(といいつつ、論文検索はしてません;)
落ち込む自分を認められないという記述がありました。
私は、これは
「自分は安定している存在でなくてはならない」→「不安定な自分」→「病気や外部に原因を求める」
という図式になっているのではないかと思いました。
社会全体が安定的ではないので、自分だけは安定していなければ、自分を守れない感覚がどこかにあるのではないかと思います。ある種それは、社会のせいかもしれませんが、それでも健康的に過ごしている人はたくさんいるわけで・・・。
上記の図式があるため、「病名のつけられたさ」というものが生じるのでは・・・と思います。自身の不全感は自分の責任ではなくて、病気のせいなのだ・・・という・・・。自分の不全感に合う病名(殻)探すのですね。
物質的検査で「きみはうつ病」「きみはうつ状態だけど病気ではないよ」という診断ができれば簡単なんですがね~。
でも、著者が言っているように、病的ではないけれどうつ状態の人に対してなんらかのケアというか対応は必要であるとおもいます。それが、精神科医の仕事に含まれるか・・・というと疑問ですが、むしろ臨床心理士領域?
著者は、対応として「●ヶ月」「戻りやすい時期だから」というような数字的・建設的なアドバイスのほうが彼らは聞き入れやすく、復帰しやすいということも言及しています。
「うつ」といえば環境調整ですが、ある程度までは可能でもそれ以上は無理な場合があります。
それに対して、無理だと感じながらも不満を言い続けるよりも、認知―物語療法などの、認知に働きかけることが効果的では・・・と感じます。
達成感よりも免責を選ぶというのは、私の世代でもよくあると感じます。
手術しない――精神分析しない
別に、「今春は白が流行る…!!!」みたいな本じゃありません。
モンスター・ペアレントについての本です。
まぁ、昨今良く言われていますが、自分のわがままを強固に押し通そうとする親のことですね。
この本の中で、文句を言われやすい業種として、
KITCUT(キットカット)という言葉紹介がされています。
K=航空会社
I=飲食店
T=教師
C=地方自治体
U=運送会社
T=テレビ局
だそうな。たしかに…。しかし、これに福祉業界を入れても良いのでは・・・とも思います。最近は、医療の分野でのモンスターペイシェントについても問題になってきていますがね。
この本は、モンスターペアレントの事例集のようなものです。対象の事例集であって、対応の事例集ではないので、もう少しこういった対応が効果的だという描写も欲しかったかも。ちょいちょいありますが。
愚痴本といったほうが良い側面が見受けられます。
しかし、彼らはどうしてモンスターとなってしまうのでしょうか。
他者との交流の中で、自分の意見はすべて通るものだと思ってのことなのでしょう。自分の意見は正しいと思っているのでしょうから、常識的に…などと言っても効果は無いだろう。他者を観察できないという状況なのだろうか。
“子どものため”と言いつつ、実は自分自身のために作用しているのですよ。子どものためということを、マクロ的に処理できない…少し前に言われていた叱れない親の成れの果てではないのかなぁ。まあそれだけじゃないのだろうけれど。
モンペ(しかしこの略は慣れないな;;)に対して、怒りの感情を向けるのではなく、なぜという視点を持つと、比較的に対応するときに余裕が生まれるのでは、と思います。怒りだとその時点で相互理解はできなくなってきますしね。
限界はありますけどね…人間だもの。
そういう余裕を持ちつつ、この事例集を読んで、自分ならどう対応するだろうかと読んでいくと良いのでしょうね。私は、いやーもうわからんってなりましたが。
常々、私は性の境界というのはあいまいだと感じていますが、しかし身体のシステムの違いというのは結構絶対的であるとも思います。
私は、同著者の『くすぶれ!モテない系』に共感できるし、彼女の女性であるという部分に対しては、かなり近い感覚があります。
ただ、男っぽいといわれてあわてたりはしませんが。
むしろ、女らしいと言われるよりうれしかったりします(しかし、女らしいとは言われないが)。
今は、もう少し胸があれば、服とか選べるのに…と感じる時があります。胸の大きく開く服とかすっかすかですからね、すっかすか(大事なことだから二回言う)
でも、昔は、少年っぽい格好するのが好きだったし(実は今も好き)、胸はむしろ無いほうが良かった。ぶかっとしたのを着るには胸はいらない。
あ、胸の話に終始してしまいましたが、まあ、ヘテロであるとかホモであるとかは結構微妙なラインだと思うのです。
男性は、思春期から性的対象として、女性を提示され続けますが、そのヘンは女性のためのものは、おおっぴらには無い。
だからこそ、女性のバイセクシャルへの移行というのは簡単なのではないかと感じます。先人がパートナーとして存在すれば。
くらたまも、レズの女性からのアプローチにはゾクゾク(気持ち悪さとかいう意味ではなく)して、「恋愛は脳でする」というようなことを言っていましたし。たしか。
アスペルガー障害を持つ人が生きやすいようになるための工夫を紹介しています。
前作同様、エイリアン(自閉系アスペ)の妻を夫が語るという形をとっています。
これは、自閉系でなくとも、人間関係が苦手な人には、参考になる部分があると思います。
自閉系の本を読むとなんとなく当てはまる部分があるなと常々感じているのですが、だから余計にそう思うのかも。
私の人間関係の苦手さというのは、経験不足によるものなのか、気質的なものなのか、器質的なものなのかはわからないけれど、ただ苦手なことを知っておくことで、頼るスキルが向上する。
ところで、今日「常識的なことが出来ない人が増えている」という話を聞いた。もしその常識的なことが出来ない人というのは、自閉系のためその常識的なことが思いつかなくてできないというのであれば、自閉症が増加しているという統計とも一致するよなぁと思いました。
自閉症が増えているのに、高機能自閉症は不変なんてことは無いと思うので。
でもその就職に関する「常識的なこと」というのは、大学で教えられているはずなので(うちの大学の場合は特に)、思いつかなかった人であっても、できるのではと思うのだけど。
相手を思いやった常識的な振る舞いというものをオートにできるか、マニュアルでやらなきゃいけないのかというのは大きい違いだとは思うけれどね。
精神病理を理解する手がかりとなる本・漫画の紹介をしています。
第一章
アダルトチルドレン(ACとはなにか、現代の日本の状況、現実逃避)
第二章
アイデンティティ(差別、戦争、ジェンダー、ハンディ、仕事、多重人格)
第三章
依存(アルコール、ドラッグ、摂食障害、その他の依存)
第四章
共依存(夫婦・カップル間の共依存、子どもとの共依存、その他の共依存、フェミニズム)
第五章
虐待(虐待、性的虐待、異常犯罪、離婚、学校)
第六章
癒し(エイジズム、死、子育て、ストレンジャー、癒し)
この本に載っている本を読むことで理解するということを目的として作られている本ですが、この本を読むこと自体で勉強になります。
一方で著者に偏りがあると感じました。特に、漫画。
昔からの作品や、誰でも知っているような作者だけって感じがします。
この中で漫画の絵について古いですが…みたいなことを言うのであれば、最近の作品からも出して欲しかったです。
なぜかと言うと、絵が新しいこともそうですが、時代に合った読みやすい作品が出てきているということです。
メジャーどころの作品について、精神病理という視点から見る機会としてはいいのですが、漫画界ででしか評価されていない作品に光を当てることも必要ではないかと感じます。
有名なものはきっちりチェックしてるんだなーとは感じました。
内田春菊とか、エヴァとか。
今であれば、この本にはNANAとか入っているのではないでしょうか。ガチで病理ですし。
私としては、彼女の作品は、天ないが一番好きですが、一般の人にもわかる作品というとNANAでしょう。
この本でぜひ紹介して欲しかったのは、総領冬実のMARSです。あれは、漫画版永遠の仔という表現もされています。(ちなみに、永遠の仔はこの本で紹介されています)
幸せとは一体なんなのでしょうか。
社会的に幸せそうに見えても、それは実は…ということも多い。
負け犬女性が不幸せかといったら、社会的に不幸せだと思われることが不幸だと思う。
中村うさぎは
世間一般の幸せと、自分の幸せにはギャップがあって、他人に承認される幸せを追い求めるために、自分にとっての幸せを逃してしまうといっています。
結婚という形式では彼女は幸せを得れなかった。彼女は“自分らしい”ということに主眼をおくために。
自分の幸せの形はいろいろあるはずなのに、世間に流されるというのは馬鹿馬鹿しく感じる。
一方で、他人に承認されるということが最優先の幸せという人もいるだろう。私はそれでいいと思う。他人に褒められることが幸せだという人に対して「寂しい人」のようなネガティブな評価が下される場合もあるが、それはそれで良いと思う。
自己実現というものはそんなに大事なものなのだろうか。
美川べるのが言うように「歯車は大事」なのである。
確かに、周囲に影響されるような、幸せは不安定であり、不幸に遭遇することも多く訪れるだろうが。
しかし、そう考えると安定した生活を求める人ほど、周囲に影響されやすい不安定な幸せを得、不安定な職業にある人ほど、自分の行動による安定した幸せをもつのではないか。
ここまで書いて気づいたが、幸せを満足感だと捕らえたほうがわかりやすいと思った。
小学生へのコンドーム実物を使った授業や、出産のビデオなど…過激な性教育への警鐘を鳴らす…という本です。
発達段階に合わないような性教育には疑問を感じるというか、出産ビデオでそのグロさから、ショックを受けてしまい「子どもを生みたくない」という感想を出させてしまうような、授業というのはやめてほしいと思う。以前性的虐待の講演で性的ネグレクトというものがあった。過ぎた性教育は性的虐待と一緒ではないかとも思う。
正しい知識はやはり大切だと思う。それも実態に合ったものね。著者は若い人には性の自己決定能力に欠けるという意見であり、それは私もおおむね同意するというか、18禁の言葉にあるように、性の自己決定権はそれからで良いのでは、とも思うわけです。その前から、少し年上の人から教えられ…とかまぁ、その影でいろいろとあるだろうってのには目をつぶった上でさ。アルコールやタバコと同じ感覚で。相手がいることだから、同じこととはいえないけれどね。
でも著者は「性感染症を防ぐために、コンドームを使え」という教育は、若年者のセックスを許容するとしていけないとしている。これには疑問を持つ、著者は「性感染症を防ぐために、セックスするな」という考えかたなのだが、実態に即していないような…。まあ、それが一番確実なのですが。やりたいか、やりたくないかのほかにやってはいけないの概念をっていうふうに選択肢を増やすってのはアリだと思いますよ。
だが、著者の人の考えを鵜呑みにするのも危険だ。
データをいいように使っているとしか見えない。札幌の事例においても、“過激”な性教育の結果、性感染症が多いという結論を出しているが、それは仮説のひとつなだけであって、それだけで話をすることはできない。
そして、著者の書くだからといってフェミニズム悪という書き方は好きではない。フェミニストは「男らしさ、女らしさを否定し、男女の違いは性器だけでしかないという人」としている。
どう考えてもフェミニストである上野千鶴子はそういう考えではないと思う。彼女は男子文化と女子文化について分けて考える必要性をその著作で述べている。彼女の著作も読んでいるだろうに、自分の論説に都合悪いことは無視してるとしか見えない。
最初はずいぶん偏った考え方だな~(苦笑)みたいな感じで読んでいたのに、私が憤りを覚えたのは以下。
強姦に抵抗しないのは犯してくださいと同じ…みたいな論説。ふざけんな。性的被害者を責めるような論調。
同性愛批判に関しても同様だがあまりに人の気持ちというものを考慮していない。
私の意見が絶対的に正しいとも思っていないけれど、これはあんまりだ。
出産シーンを見てグロいと思うか、思わないかというのは個人の見解だし、それは自由なのだけれど、全体で行う授業であるからこそ、誰かに心的外傷になるようなことは排除しなくてはいけないのではないかと思うのです。血が苦手だから、出産の立会いをしない父親もいるわけですし。
ゼミの先生が言うには、学校で心理的なアンケートをとるときは、すごくチェックが厳しいといっているのだから、性的なものに対しても、同様の対応をとっても良いと思うわけで。
まぁ、この著者は過激な性教育で性に過大な興味を抱かせているという意見のあたりは、うむむ…と考えるところだけれども。
川島先生は飲まない人、泰羅先生は飲む人。
「酒は百薬の長」なのか「酒は害」なのか、二つの立場から、アルコールが脳に与える影響について語っています。
表題はキャッチーなタイトルですが、内容はそれが主題ではありません。
結局は酒は脳には悪影響が強い、でもそれを上回るメリットがあると思う人は飲めば良いし、デメリットが強いと思う人は飲まなければ良いというのが泰羅先生の考え。
私もそう思います。
川島先生は飲まなくても、朝まで付き合える人。泥酔することが理解できないタイプ。
まあ、飲み会のたびに二日酔いで周囲に迷惑をかける人のことは嫌ですが。
泰羅先生の考え方はよく理解出来る。酒を飲んでも翌日仕事があるなら這ってでもいく。飲んだ責任は自分でとるということは、私も大事にしてるんです。遅刻しない。約束は守る。
ただ基本的に人の機微に疎いので、迷惑かけてしまって不快にさせてたら申し訳ない。指摘して下さいな。
ところで「セックスのエクスタシーの瞬間に、脳全体がブラックアウトするという研究報告があります。酒で記憶が飛ぶまで飲むのは、脳にとってセックスのエクスタシーと同じことなのかもしれません。(p99)」というのは、
むしろ、研究した人がすげーと思う。
第2条 すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒についての節度を保つように努めなければならない。
―――「酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」
http://www.houko.com/00/01/S36/103.HTM
日本の死体の解剖率は2%。
「無監査医療」の日本は「無責任医療」へとつながる。
死因を解明するために、Ai(死後に行うCT/MRIなどの画像診断)を行うべきだ。ということを、明瞭に、強く主張した本。
小難しい問題提起本であるが、『チームバチスタの栄光』の白鳥(厚生労働省の奇人)を、『螺鈿迷宮』の別宮(記者)がAiについて取材する形式をとり、その補足として、著者による論理的な記述が続く。
対話形式と論理形式の交互構造は新しいものではないが、小説が先行してあることで、白鳥に説得力を持たせている。
重いテーマであるはずなのに、読後感は痛快でした。
監察医制度は、一部にしか存在しない制度ということをはじめて知った。キラキラ光れない!
ホスピスと監査
解剖許可とエーアイ許可
虐待事例では? エーアイ拒否はまだ無いらしいが
Aiフィールド
小児死亡は全件解剖すべき→エーアイ義務化