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 デブ・ブサイク・不潔…まとめるとキモイ。そんな“野ブタ”を、修二は人気者へとプロデュースすることに。
 
水の表面をさらっていくような、物語の描き方は物足りなさを感じつつも、気持ちの良いスピード感を演出している。
クラス内カーストという、大人たちが忘れてしまった話を生き生きと描き出す手法はスバラシイと思う。
一方でリアリティに欠ける気がした…私がヘンなのかな。
この作品は日常生活を「演じる」ことによる哀しさみたいなものを描いていますが、「演じる」ことは、ある種の処世術で、ソコまで批判されることないんじゃないか。
事実、野ブタがいじめられっ子から脱却したのはそれがあるからですし。
修二が野ブタを人気モノに仕立て上げていく手法は、本当に上手いと思った。いじめられないように自分を守る処世術というのは、世間を渡っていく上で必要だ。
本当は、いじめなんて起こってはいけないことなのだが、それを無かったこと、見えなかったことにするのはもっといけない。
大人の世界は歪んだいじめなんてたくさんある。
嫁いびりなどはよくあることと認知されているが、いじめだろうそれは。職場でも、家庭でも。
演じるということは誰でもやっていることだろう。電話に出たとき声が高くなりませんか? 彼氏・彼女の前ではいつもと態度変わりませんか?
演じている自分に気付く人は心が疲弊してしまうのだろうけれど、演じられるということは、その要素を自分が持っているからだ。だから、演じるということは「自分をなくすことじゃなくて自分を増やすこと」なのだ(一条ゆかり『プライド』より)。
 
 
さらっと読めるのに、考えさせてくれるという良書でした。
上記でリアリティに欠けると書いた。
序盤で修二は不良に虐められている野ブタを救うことから物語が始まる。
終盤は殴られている友人(修二は認知していない)を助けなかったことから修二は窮地に追い込まれる。
野ブタを助けた修二が、その友人を助けなかったのは、それが友人と気付いていなかったということのためだが、そこで野ブタを助けた過去のある修二が罪悪感を感じている様子がないのが気にかかる。
そもそも、野ブタを助ける必要性はあまり無いはずだったのだ。
小説自体が修二の独白のような形なので、修二の本音というよりも、演じている修二という印象を受けたから、そのためだろうか。

基本的にいじめをすることに関しては嫌悪感を持っているように感じた。というよりもいじめカッコ悪いっていうのは周知の事実であり、修二は冷静に周囲を見ているため、それがいじめだと気付いているから、いじめをする人々を馬鹿にするしかできない。
そこで、もう一つ惜しいと感じさせたものがある。
「野ブタをいじめられキャラにする」
修二だったらここは
「野ブタをいじられキャラにする」
というのではないだろうか。
『りはめより百倍恐ろしい』ではないけれど。
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